昭和41年03月27日 夜の御理解
今日は、連合会の信徒会が善導寺教会でございます。三十数ヶ所の教会の信者さん方が集まって熱心にと言いたいけれど熱心ではないけど、やっとかっとの感じで共励会がございました。ただ最後に平田会長のお話がございましたが、まぁ何時もそれを感じるのですけども、本当にあの平田さん一人でもっているという感じが致しますね。それは、もうお話を頂いておりますと、まるっきり怒られているようで教師信者問わず、もう顔色無しというところでございますね。
もう本当に人を馬鹿にした様な表現で、非常に激しい言葉で激しい態度で、はつかんの踏みならしてからお話をされました。椛目から沢山行っておりましたが、椛目の人達はもう、まぁ本当にそこだそこだとこういう気持を頂いた様でございました。そのお話の中に、私は何時も有難いと思います事は、平田さんのそうした激しい話の中から、何時も初代の甘木の親先生の信心を、まぁ平田さんの御信心を通してお伺い知る事が出来る。いわゆる偉大な信心であったと言った様な感じるのですが、今日もそんな感じました。
と言うのは本郷の教会長先生が一番下であられますそうですね。ですからあちらが本郷に出られます時に、いわゆる親奥様ですね、親奥様が安武先生に一番下の子供ですから、可愛い。どの子も可愛いですが、一番裾で甘やかして育てておったのは特に可愛い、それで先生、どうかあの人に信心の極意、おかげの頂かれる極意を一言、あれに教えてやって下さいと頼まれたそうですね。そしたら安武先生が仰った事は「信心をしておれば分かる」と仰ったそうです。
ですから、この方も或る教会の代表の方が、感話を致しておりました。そして自分は義理の母の信心でお導きを受けて、そして信心の道に入ったという話をされたのです。そしたら、その人に言う訳ではないですけど、と言って話が始まったのですね。信心の道に入っとると言うて信心に入っていないじゃあないかと。これは貴方達ばっかりではない。皆がそうではないか。その証拠におかげを受けておらんじゃあないか。
甘木の親先生は信心の道に入っておったから、あぁいう偉大なおかげを受けられたんだと、こう言われるのですね。信心しておるから信心の道に入っておるとはいえんと。もう本当にあの極言ですけども、そのものずばりだと私も思いましたですね。これはお互いが思うてみなければならない事。これは何というがんちくのある言葉であろうかと思いました。信心してれば分かる。だから三十年だったって五十年たってです、信心しておってもおかげを頂かないならば、その人はまず信心でないと思わなければいかん。
ただ御広前に通っておるという、教徒とか信徒とかの中におるから、その列に加わっているから、信心の道に入っておるというのじゃあないという事を言われました。十年と信心が続いたら我と我が心を奉れと仰るが、これは私の解釈でございますけれども、教祖の神様は、十年と信心が続いておって、われと我が心が拝めないとするならば、それはもう信心ではないと言う事ですよ。
そして私は一つ強くまた思わして貰った事は、あぁして自分が実際おかげを頂いておる、それは私はもう甘木とか連合会とか小さい事は考えておらん。教団や教団の教師を問わず、本当に根本からやり直さなければだめだと。まぁだ教団が生れて百何年しかならんのに現在のだらしない状況はどうか。教学はと何か、教学くそくらえといった言った風な表現なんですよ。そげな事で人が助かるもんじゃなか。親先生が座っておられるのに御結界をにらめつける様にして言われるのですよ。
ここでじゃあ初代がどんどんそれこそ、私も一辺ここにおかげを頂いた事があるが、隆々たるおかげが、ここの御広前にも立ちよった。青年会もあるじゃあないかという様な言い方でした。どう言う訳若い者がついてこないか。どうしたら分かるじゃろうか、どうしたら分かるじゃろうかち言うてから、どうしたら分かるじゃろうかてんなんてん、自分自身が分かろうとせんで分かるもんか、と言うて激しい言葉でした。
本当に顔色無しですよね。実際御比礼頂いてない教会の人達は、本当顔色無し、その通りだと思わなければと、私は思います。腹かくだんじゃなかと思いました。それは本当にひどいひどい、もう顔もこうひきつってしまってですね、本当に、自分がおかげを受けておられるもんですから、皆もこんなおかげを受けられると、どうしてこう、有難い信心を分からんじゃろうかと。やっぱり燃えるようなものが、あぁいう言葉になって現れるのだと思いました。
こういう有難い信心のいわゆる道におりながら、結局その信心の道に入っていない、道に立っていない、道を踏んでいないという事。お互いの信心というものがどれほどのところに、信心といえるものを持っているだろうかと思ってみる時にです、甘木の初代の仰った、本当の信心しておれば分かると言う様な、分かっていく様な信心でなからにゃあつまらんと私は思う。
お願いをしてから、お取次を頂いてから、おかげを受けとるというのじゃあなくて、そこで神様は何時も絶えず、私共に信心の道に入らせようと、本当の信心を分からせようという、まぁ言うなら、これはやっぱり一人一人に椛目ではです、噛んで含める様に御理解下さっておるのにもかかわらず、信心が椛目の人達は分かっていきよるだろうか、と言った様な事を私は思わしてもらった。
甘木の先生が、一番可愛い、いわゆるおとんぼの先生が、布教に出られる時に、先生貴方の信心の極意を教えて下さい。お母さんが頼んであげられたにもかかわらず、先生は極意はなか、ち信心しよれば分かる。自分で得たところの極意でなきゃ、極意は本なもんじゃあない、という事をおっしゃった訳でございましょうかね。本当に味あわせて頂く言葉でした。
どうぞ。